劇場紙風船 おふろ場


SWITCHonExcite劇場紙風船に書いた記事の、おまけページです
観たもののリストや各種思いつき、特集記事などは大福帳に載せています

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2006-05-27-Sat-00:02

ミュージカルの芸とミュージカル級のゲイ

映画『プロデューサーズ』の記事(1)(2)と関連しそうな

コニー & カーラ コニー & カーラ
ニア・ヴァルダロス (2005/05/18)
ポニーキャニオン
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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
ジョン・キャメロン・ミッチェル (2002/09/06)
エスピーオー
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異性装嗜好者のゲイがみな、芸術的感性が鋭く話が面白く、懐が深いとは限らず、中にはその真逆の人もいるかもしれない。しかし見知らぬ人から挨拶のように「化け物」と罵られたり、人の痛みを知る機会が多いのもたしかなことだと気づく作品(『コニー&カーラ』)。

売れない女芸人二名が、ひょんなことから身を隠すはめになりロスへ出て、最強の目くらましと思われたドラァグクィーンの格好で生活する。彼女たちが本性を隠したまま、知り合って親しくなるゲイの仲間らの悲喜こもごもが、二人の目線を通して描かれる。味わい深い名作にしようと(多分)思っていないドライなB級感に貫かれ、ラウンジアクトやナイトクラブのショウなど劇中コント的な体裁で、いろいろなミュージカルが出てくる。比較的近年の作品が多い。

コニーとカーラは、ものすごく気持ちよさそうにナンバーを歌いまくる。『ジーザス・クライスト・スーパースター』はシーツに穴をあけてかぶれば衣装はなんとかなるということと、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』がなんで出てこないのかといえば、内容が直球過ぎるからだろうという発見もあった。かわして使う方法はあると思うが、このへんの緩さが惜しい。そういえば、ヘドヴィグにもレントが少し引用されている。

『プロデューサーズ』のレビューに書いた「ロジャーらの言動に対する既視感」は、今ではなく少し前にこういう人いたなあ、というものだ。先輩たちの努力により、もはやミュージカル級の「gay」を演じる必要がなくなってきたのか、あるいは単に非コテコテが近年の流行とか。

映画に出てきたような、さまざまなステロタイプやベタは完全に芝居の中だけの話で、現実の自分を一つのタイプに染めなければと思うような強迫観念のない社会がもしあったら、それはある意味成熟と言えるのかもしれない。でも実際は、紋切り型がなくなると面倒ないしは困るという意思によってステロタイプは再生産され、日常で演じられていくのではないかと思う。

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【 プロデューサーズ 】

2006-05-21-Sun-21:11

エスケープ・フロム・レント

映画『プロデューサーズ』の記事(1)(2)で言及した作品
RENT/レント
映画化する時、スコセッシのところにデ・ニーロから監督依頼がいったものの、脚本を読んで気に入らず話に乗らなかったという。

1.恋人の死は悲しい。
2.仲間をむごい理由で失うことは恐怖だ。
3.これからに対する不安と模索は、どうすべきとかいい悪いという問題ではなくずっとあるものだ。
4.今日も精一杯生きる。
5.アートでいきたい俺。

以上1から4はまことに正論、5は個人の自由だ。しかしこういう、それは言葉で言わないだろうということを全部念押しするように言ってくる。さらに「いい話」としてのしてくる感に気持ちがしぼんだ(以上、舞台『RENT』の記憶)。でも詩とゴスペルを援用した音楽とクリスマスを用いて、こうとしかなりませぬ、という徹底した世界を構築していると思う。とはいえ『シンドラーのリスト』の次に苦手なタイプだ。

ドキュメンタリーを、そのまま現実だと素朴にとる人は少ないに違いない。ましてや『シンドラーのリスト』はあくまでも「史実に基づく物語」で、れっきとした感動巨編の興行作品だった。
この映画で描かれているヒューマニズムや俳優の熱演や映像の技術に、けちをつける気もまったくない。だが『知ってるつもり?!』を劇場で観てしまった感じで、いつ関口宏がすっぱい顔で出てくるかと…。

戦争を直接描かずに描くこともできるフィクションの可能性が、もっとも萎縮したかたちで出てしまっているように思う。そしてわりと有名な実際の映像を、最新のテクノロジーで、新しく撮った画と織りまぜてお見せくださる。やさしいから客は楽できる。どういう都合でこういうことをやるのか考えたら、親切ではなくごかしなのは明らかでしょうあえて映画のタチの善し悪しを問えば、とてもよくないのではないか。
SHOAH』や地味な佳品は観ない、映画に馴染みのない人向けにつくられているのかもしれない。

ショア ショア
クロード・ランズマン (2004/06/25)
ジェネオン エンタテインメント
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大方の評価に反するかもしれないが、スピルバーグの三部作で一番ましだと思ったのは『ミュンヘン』だ。イデオロギーの言葉で喋る人や、自分はちっとも悪くないのに暴力に巻き込まれる人たちではなく、イデオロギーや大文字の政治とは仕事をしない人たち(有力な情報屋から現場の暗殺班まで)を軸に据えている。

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【 プロデューサーズ 】

2006-05-19-Fri-23:25

プロデューサーズ 3 メル・ブルックス

マックス・ビアリストックのBialystokは、ユダヤ人のパンのビアリーに由来する名前で、ユダヤ系の大きなコミュニティがあった同名のポーランド北東部の街も存在する。ということで彼はおそらくユダヤ系の設定。ブルームもユダヤ系の名前なので、マックスとレオがリープキンに「ヒトラー総統の魂」に誓いを立てさせられるくだりは、かけがえのない認められない日々を仲間(鳩)と過ごす『RENT』な男につきあう、という以上に明快なギャグだ。2人ともちゃんと真ん中の指を立てていたが。

monsieurbrooks.jpg

原作のメル・ブルックス(写真)はコール・ポーターについて「いまだに彼がシンガー・ソングライターとして、常に私のナンバーワンである。(何年も経ってから、私はコール・ポーターがユダヤ人でなかったと知って驚き、そして一瞬面食らったが、すぐに彼を許した。私だって、もし彼のような曲が書けるのなら、熱心なキリスト教信者になるだろう。)」と書いている。2001.4.15 N.Y.TIMES 舞台パンフレントより

ブロードウェイにのせる時、ブルックスは作品の時代を1968→59に書き換えたそうだ。「人々も人生を楽しんでいた平和と繁栄そして喜びの時代」(ブルックス)。つまりベトナム直前のアメリカ。でも心底呑気で傍若無人という訳でもなく、人間に対するニヒリスティックな視線とか絶望に近い諦観、そこからすうっと立ち上る一筋のおそろしくタフな明るさという世界観はしっかり敷かれている。

映画の記事はこちらプロデューサーズ  プロデューサーズ(続き)

【 プロデューサーズ 】

2006-05-17-Wed-23:01

プロデューサーズ 2/アルトゥロ・ウイの興隆

ほら、そっくり。



左:プロデューサーズ 2005.7.6-24 東京厚生年金会館
右:アルトゥロ・ウイの興隆 2005.6.22-30 新国立劇場中劇場

映画『プロデューサーズ』の記事
プロデューサーズ  プロデューサーズ(続き)

舞台『アルトゥロ・ウイの興隆』の話
ブレヒト原作、ハイナー・ミュラー演出、ベルリーナ・アンサンブル出演の『アルトゥロ・ウイの興隆』は、ヒットラーの権力掌握を、シカゴのさえない心底卑劣なギャングが、青果産業の支配権を握る過程に置き換えて描いた作品です。

冒頭、ウイがさかりのついた野良犬のように這いずり回る、強烈なシーンから始まります。色彩・物語・難解な仕掛け・オペレッタの雰囲気を借りた演出…どれも悪夢的でした。都合どおりにならない現実に生きる人間の鬱憤や妄想、羨望、弱い気持ちがふきだまって押し上げられたものが、他の抑圧に転じる。その過程は、あのカルト教団に集った人の心性、つまり現代の日本とも深く繋がっているんじゃないかと思います。
また、ある集団が一つの虚像をつくり、人心を集め金を出させる。実社会でこれをやっても怒られたり罪に問われず、それどころか金を出した人たちに拍手されるのは、演劇だけではないでしょうか。

落ちぶれた俳優を雇い、ウイが演技や身振りを学ぶ場面を観て、当初どちらかといえば親ユダヤで(ヒトラーの絵を売っていたハーニッシュの言)、バイトのつもりでやっていたらしい演説がとても受けたという、若い頃のヒトラーの才能を思い出しました。何かものすごい負のものが、言葉から炸裂してたのかもしれません。その会場に、なんで甘言を弄する劇団スカウトがいなかったのかな…と思います。

劇中で流された1974年のヒットソング♪The Night Chicago Diedは、カポネが銃撃戦を行い100人の警官が死んだ夏の夜の話(創作)を歌っています。FOXTV『X-files』2ndシーズンのエピソードでも使われたこの曲、どベタな歌詞の臭みは、漫画的な、中空に浮かんだ感情失禁風のコーラスでメロディアスに歌われることによって消されています。
この曲が何度かリフレインされたので、原作の題名「アルトゥロ・ウイのとどめがたくない興隆」に込められている(抑えれば止められた)という暗意は、現場の抑止について言っているのではなく、そもそも抑えも止めもしない社会を指しているということは掴めました。が、音楽的にはひねりが少ない気がしました。

7月に来日したメタ・ミュージカル『プロデューサーズ』もドイツ年関連作品に加えて欲しかったです。第三帝国を舞台にした「史上最低」劇中劇「ヒットラーの春」があるからです。『プロデューサーズ』は、喪失や虚無がどんなものであるか知っている人々が、それでも生きていこうとするタフさを、そう正面から言わずに描いたエンタテイメントです。優れた作品だけが持つ速さがあり、メル・ブルックスが壮大な無駄に込めた恐るべき意味に驚嘆しました。ところで『アルトゥロ?』でポスターになっていたあの人間逆卍は「ヴトケ自身のアイデア」とのことですが、『プロデューサーズ』でも出てきました。ゲイ・パージョンもあったはずです。人間の考えることは、往々にして似るんですね。(初出:Wonderland) 

【 プロデューサーズ 】

2006-05-16-Tue-14:03

プロデューサーズ

映画の記事はこちら 劇場紙風船 プロデューサーズ

prducers_stage.jpg

ミュージカルは作品の骨格を音楽で表す。1つのメロディ(ある人物のテーマ)が転調して他の人物によって歌われるなど、まるでメロディ自身が意思を持って動いているかのようにナンバーの中に現れると、台詞に頼らなくとも人物間の感情の伝播、複雑な内面、劇の大まかな構造は音の層としてたちどころに理解できる。

という形式が、いつだってミエミエのすてきな演技でわかりやすく提示されているにもかかわらず、未だに「突然歌うからヘンだ」、またバレエ・歌舞伎にも動物や「○○の精」など人間以外の役はあまたあるのだが「人間が猫や獅子になるのは苦手」という人を見る。
バレエを観ながら「王子は着替えの途中みたいな格好で、飛びながら宴会に出てこない」「太股あらわな衣装で脚を上げたりブンブン回る姫などいなかっただろう」とか、はたまた歌舞伎にやってきて「ちゃんと喋れ」「男は女ではない」などという前座以下の発言は誰もしないはずだ。が、同じような程度のことをミュージカルについて言うと「頭が固いだけでは」としらけられずに、それどころか司会者が笑いをとるエッジな発言として、通用した時代があったというのが驚きだ。

三条会という現代演劇の集団が、ルイザ・メイ・オルコット『若草物語』を昨年取り上げた。もちろんよいこ名作劇場として死に体上演したのではなく、ミュージカルの他に歌舞伎やバレエも含めた、特殊な身体言語と音楽を用いるエンタテイメントに対して、意識的で先鋭的な実験を行っていた。


三条会は稽古に鈴木メソッドを取り入れているのだが、このはちみつレモンのような単語を使わないで、演劇をよく知らない人にも読み物としてわかるように『若草物語』レビューを書いた。そして物語の中で起きる出来事の意味が、結局ドリフ大爆笑の落ちで鳴るジングル「ブ・パ・パ・ブッ」とほぼ同等という歌舞伎で、なぜもらい泣きが可能なのかということを踏まえ、この舞台と客席に流れた楽しい雰囲気を伝えたいと考えた。

かなーり長いので前置きだけ紹介します。

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