劇場紙風船 おふろ場


SWITCHonExcite劇場紙風船に書いた記事の、おまけページです
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2006-08-08-Tue-17:29

プロデューサーズ 4

『プロデューサーズ』でも描かれているとおり、一度作品を世に出したら人がどう取るかはわからない。意図を間違えられたり誤解されたりすることがある。ロベール・ルパージュの一人芝居『アンデルセン・プロジェクト』に出てくる移民の青年のエピソードもその一つだ。

移民特有の訛りのあるフランス語がとても難しかったため、ルパージュは青年に扮する時、パーカーを深く被り顔がはっきり見えないという、言葉を発しなくても違和感のない出で立ちにした。すると「あれぞパリで生きる移民の姿!彼らは顔のない存在として生きざるをえないのだー」と高く評価されたので、ルパージュは「ま、まさにそうなんです」と大きく頷いたという。このようにいつも未知数で、自分では絶対に御せないものに出会うことこそ、演劇の醍醐味に違いない。



今頃になって、劇場紙風船に書いた映画記事プロデューサーズ  プロデューサーズ(続き)の中で、ウーラを演じたウマ・サーマンについて一言も触れなかったことが気になりだした。
「ウーラ」というのは略称で、本名は寿限無のように長い。北欧出身の新進女優で、目の覚めるような美人だ。英語が拙く、母国語の人なら婉曲に言わないと見透かされて恥ずかしいと思う欲望や野心を、直球の単語で無邪気に歌う。

ここでまずウーラは、純朴な田舎娘のサクセスストーリーの欺瞞や限界を、長い脚で軽々とまたぐように超えてしまう。それから言葉の拙さを利用した、ちょっとしたイジワルもする。爽快なキャラクターだが、ウマ・サーマンはやや精彩を欠いていたかなあと思う。

大いに誇張された人物、という点ではそんなにミス・マッチな役でもなさそうだ。が、帰属する場所(マーシャル・アーツの師匠など私的な帰属先ではなく、「国家」など大文字で記号的なもの)がわからない抽象的なキャラクター、もっといえばそんな記号はたとえ出てきても何の役にも立たない、深読みする側が滑稽に見えるタランティーノ作品の方が、個人的にはより魅力的に映った。

それから、記事の中に長?い一文があった。どう変えたらすっきりするかと考え続けて、最近やっと加筆できた(下線のところ)。

 移民の言葉や出身や性など、人が生きていく上でどうしても持ってしまいがちな差別感情は、『プロデューサーズ』では一対一ではなく流動的な集団対集団で、しかも一方的ではない「やりつやられつ」の図式で出てくる。飽和状態になっているので気づきにくいが、要するになかなか変われない人間のいやらしい部分を大変うまく表現しているのだ。

 『プロデューサーズ』の笑いにルールがあるとすれば、次の一点だと私は思う。喪失や虚無がどんなものであるかうすうす知っている人々が、それでも生きていこうとするタフさを、正面から言わずに大勢を笑わせながらそっと伝えよう、フィクションにはそれができるはずだから、という決まりだ。これを律儀に守っているからこそ、一時の儚く楽しい夢とは質の異なる逞しい明るさが、最後に立ち上る。

 こういう作品に対する「下品」「中身がない」という低く見た言葉は、まさに先ほどの「いやらしさ」の一つだ。前回『プロデューサーズ』にはいてほしい人が必ずいると書いたが、なにを隠そうナチス信奉者リープキンは、そうした評言を戯画化した人物である。


差別について考える材料は、ジダンが頭突きするより前に、フィクションの世界に揃っている。『プロデューサーズ』も宝石みたいな作品だし、最近読んでいる白土三平の『カムイ伝』も、時々時代をワープする変な台詞はあるがすごい。これらは作者が壮絶なエネルギーを注ぎ、表現する必然があって描かれたものだ。

何か現実の出来事が起こった後に、『知ってるつもり?!』テイストの解説を聞き「暴力もいけないけど差別もいけない」と正しそうなことを言う。昨日今日話題になっている出来事に反応したこの「正しい言葉」と、さっき書いたようなフィクションに触れて、自由に考えたり感じたりする過程で出てくる言葉を比べてみよう。なかなか変われない人間のいやらしさに対して、「変われるかもしれない」という希望が具体的に、少しでも見えるのはどちらだろうか。

『プロデューサーズ』に対して、「日本人にはわからない笑い」と記した言葉を見かけた。笑いが根ざしているもの、すなわち自分と違う人種や文化や歴史や言語や風土を想像すると、また違う感想を持ったのではないかという気がする。

フィクションを観る時、作品の舞台になっている地域になじみがあるとか、物語の中に出てくる史実を「知っている」ことは、大した特権にはならないように思う。虚/実の世界での見聞や体験を、あれやこれやいろんな方向から考えたり繋げたりして、何か次に観る前に身体と頭がすごく性能のいいスポンジみたいになっている、そういう感受性と許容力・想像力を持っている方が無敵だろう。

とはいえこの場合の「わからない」は、何が可笑しいのか理解はできるが、実際にそれでワハハと笑える感覚が自分にはわからなかった、という意味なのかもしれない。古今東西笑いのツボはあまり変わらないというが、いろんなことが起きて当たり前の時空間(映画・舞台など)で、人を大笑いさせるのはとても難しい。それができる人には、私は悲劇が上手な人よりどうしても高い尊敬の念を抱いてしまう。
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