劇場紙風船 おふろ場


SWITCHonExcite劇場紙風船に書いた記事の、おまけページです
観たもののリストや各種思いつき、特集記事などは大福帳に載せています

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2006-04-25-Tue-00:41

バレエの美神

前記事「ダンスを撮る、踊る シルヴィ・ギエム」で紹介した、マイヤ・プリセツカヤがベジャール振付『ボレロ』のソリストを踊るDVDのついでに…
80歳になるプリセツカヤが参加した 『バレエの美神(ミューズ)』の話

2006musechi.jpg
いつ見ても、すごいチラシをつくる会社だ。
こちらが想像するベタや恥というものの限界を、常に超えてくる。
中は、ピエトラガラがイレールの足にタックルをかけ損なったような、
だまし絵的構成(おそらく偶然の産物)になっている。

休憩を入れて205分強のガラ公演
マールイ(レニングラード国立バレエ)&ゲストのルジマトフを、私はおおらかな大衆演劇のノリで観ている。人の笑いのツボは古今東西あまり変わらないというが、同じように舞台鑑賞に対して人が変わらず求める娯楽性に、高い技術で応え続ける集団なのではなかろうかと。長期地方巡業も大衆演劇の劇団のようだ。
また『騎兵隊の休息』のような珍しい、伝統芸能における平時の軍隊・それはお笑いである、という作品も上演するので、コンテンポラリーや他のパフォーマンスと同じく気にかけていきたいと思っている。オーチャードホール06.02.03

この公演には、マールイのソリストやコール・ドが大勢参加した。他のゲストはパリ・オペラ座元エトワールのピエトラガラ、現役のムッサン、ロモリとパリ・オペラ座からの参加が目立つ。オペラ座のダンサーを中心にしたガラというと近年では『ルグリと輝ける仲間たち』を思い出すが、この時の一部セレクションのちくはぐさというのは感じなかった。今回はイレールら2名のオペラ座のダンサーが直前に不参加となり、実質「ロモリとタフネスな仲間たち」になったという事情もあったのだが、内容はほぼ、それぞれが自分にあった演目を選んでいたように思う。

ガラのパ・ド・ドゥは全幕の中で踊られる時と身体の使い方や表現が若干異なり、観ている方としては濃縮エキスをそのまま飲んでいるような感覚がある。それが「ぜひ全幕も観てみたい」という期待に繋がる。
例えば今回はモスクワ音楽劇場プリンシパルによる『スパルタクス』のアダージョ。脚は刀、刀は脚だった。剣が武器の時代の話というのは一目瞭然で、すると全幕はどんなますらおバレエなのか。さらにどんなぶっとんだ世界観のバレエなのかという楽しみが広がる。以下順不同、一部作品のみ

幻想舞踏会 
ロマンティック・チュチュの上に、サテンの布がファサっとかかっているだけで、あれほど細やかな動きがでるとは。プルーグレー×シルパーの衣装をつけたレドフスカヤが空中で横に回転した時の、クリームがコーヒーの中に溶けていくような布の広がりがことのほか美しい。踊りはかっちりしたお形と、その形式の中での繊細なリフを見せるものだった。それでどんな物語を描くかといったら、授業参観のパウダー臭100人分のむせかえるような男女の愛憎しかないでしょう、ねえお客さんという伝統に圧倒される。

ロミオとジュリエット バルコニーの場面
1989年ワシーリエフ モスクワ音楽劇場バレエのための振付
テープのテンポが速かった気がする。音楽をずいぶん上から支配的に使うなと思ったら、作品紹介によると「通常オーケストラが舞台上で演出し、指揮者が神父的な役割を果たす演出が施されている」。
シュトゥットガルトやロイヤルの「ドラマティック・バレエ」の音楽の使い方とまったく違う。こちらはダンサーに近いというか、ダンサーの内側から音楽が響いてくるようなフィクションを見せる。

オーニス
ロモリのソロ。アコーディオンを用いたオーニス地方の伝統音楽を使い、ワルツ・タンゴ・ジークと変化する。男が幼少期を回想して、記憶固めをやっている。感傷的な踊りかと思いきや、振付は硬質で意識のとめどない動きを表現し客観的だ。助走や勢いをつけない回転、民族的なステップの繰り返しは、スピードやアクロバティックな動きとは違う力を要求されるだろう。ロモリの資質にあっている作品だった。

アヴェ・マイヤ
アヴェ・マリアに似た曲があるものだと思っていたら、ほんとにもじりだった。ベジャール振付…。プリセツカヤは拍手に応えて、2回フルレングスで踊っていた。予定していたのかもしれないが、あんなに嬉しそうに観客の拍手をじっと聞いているダンサーは初めて見た。
緋/白の扇を両手に持った、情感あふれる踊りだ。扇を動かす身体の周りに起こっているであろう風を感じる。それは常に穏やかで優しげな微風であるようだが、観る者にそう感じさせ、空間を一人で圧するまでには、大変な時間と経験を積んだのだろうと思わせる。若い身体の超絶技巧とともに必ずパラレルに存在する、舞台の魅力を見せた。

ドン・キホーテ
グラン・パ・ド・ドゥのルジマトフは、片手リフトも無理だった。必要以上に自己主張することもなく、ポーズがぴしっと決まるのでエンディングの華やかな背景の一部と化す。それよりも第一部の『レクイエム』で発見があった。できるだけ、服を脱いで踊る作品が増えるといいのではないだろうか。
これは客層を考えてサービスショットを増やすべしということではなく、ルジマトフの身体が、明らかにクラシックの修練を積んだことがわかるにもかかわらず、妙に騒々しいところがあり、それが独自の言語になっているので、やっぱり見せた方がと考えたからだ。さらにその騒々しさを、今回のように面白いと捉えられる現代の振付家と仕事をすることも大事なのだろう。
シェスタコワは筋肉のピークに向かって上り調子にある時期なのではないかと思われた。森の女王とキトリは、きちんと「わたくし」と「あたい」に。

ダジラード
シヴァコフの身体に集中して観ざるをえなかった。元々はエネルギーにあふれた身体で、フロアと空間を大胆にゆっくりと刻んでいく振付なのだろうと思った。なにもないステージなのに、男女二人(タイツのみの衣装)が動くことによって、雄弁に恋人同士の呼吸や温かみが表現される、というような。

ちぐはぐというほどではないが、ピエトラガラとパートナーが、いかにもああいう劇場に収まる古い「コンテンポラリー」を延々とやってつらかった。
マールイの看板を背負うプリマのペレンについては、4月のパリ・オペラ座との関連で観た全幕の白鳥の時も、場ごとの抒情性というより音楽絵巻の見せ方が巧みだと思った。ポアントで上がる時に「ぐん」という勢いを感じる時が…わずかだが一瞬流れが途切れてしまうことがある。あとは、日本全国津々浦々に「本物(チラシより)のバレエ」を見せ続けるカンパニーの存在と勝手に重ねてしまい、立派と感じ入るばかりだった。最後の全員でのレベランスの時に、ペレンだけ唇が艶のある真紅だったので、これが一人で主役を踊る時はよけいに「はりついたような」と言われる笑顔を目立たせてしまうのではと思われる。その口元が誰かに似ていると考えていたのだが、多分全盛期の梅沢登美男の娘姿だ。

全員によるレベランスは不思議な雰囲気だった。冒頭に書いた大らかなノリがあって、それとはふだん相容れない「ダンサーの輝ける刹那の生!ありがたやー」という紹介文脈で観る機会の多いダンサーや、振付家の作品が同居している。しかしマールイもオペラ座のダンサーも、根本には共通する言語「才能・鍛練・団内外の能力順ピラミッド」があって、そこに生きているプロの人たちである、ということに関しては一緒だというのがわかった。
ひとりだけ身体が違って、それが残念な浮き感として感じられたのが草刈民代だ。私はかつて『若者と死』を踊った彼女の「死」は、死それ自体というより死神の忠実な僕という演技があったと思うし、「プリマですが何か」とアテレコしたくなる豪華な笑顔はどちらかといえば好きだ。でも、それでも、ごく自然に両者の違いが感じられる公演だった。

掲示してあったLaurent Hilaireの署名
hilaire.jpg

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【 ダンスを撮る、踊る シルヴィ・ギエム 】

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